#おもてなし は「心の礎」 (旧・接客マナーは心の礎) 領域と境界線(1) 当たり前と見返り

#おもてなし は「心の礎」 (旧・接客マナーは心の礎)

人を心から想い、思う気持ち“思いやり”は【心の礎】です。それは「おもてなし」の『心』です。
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ハート無題1s #思いやり ってどんなこと? ハート無題1s

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当ブログに御訪問戴き、誠に有り難うございます。

この心の礎に載せてある「人の心」や「対人関係」の記事は壮年に至るまで先々のことや人の心や思いを意識せず、
目の前の「楽」やその時の感情・我欲を自制出来ず、刹那に生きてしまった、と自省のキッカケとなった壮年後の
学びから気付かされた他人への「想像力や心に関わる心」の在り方、持ち方などを過去の実体験に照らして知った
知識や智慧など,御覧戴く皆様の今後の社会生活や仕事上で僅かでも役立てて頂けたらと考えて載せております。
ですから書いている私が記事内容の総てが出来るのではなく甘く見ても2~3割程度しか生かして使えません。
思いやりや礼節・感謝・誠実などの心に関する項目は「対人関係」上の参考資料として使って戴けると幸いです。

私的利用外の文章・写真のコピーや転載は御遠慮下さい。教材や営利を目的とした無断引用転載は禁止です。
尚使われる場合は記事の右横、Categoryの上にある「問合せMail」にてお名前・連絡先・目的をお知らせ下さい。

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人としての当たり前見返りを求める心の境界線

お薦め度【★★★★】全業種、業態用

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一人の人間として、介護する人として大切にしたい心

人は、好かれたい、認められたい、愛されたい、信じてもらいたい、信頼されたい、感謝されたい、
このようなことは、多少に関わらず、その相手に何らか見返りを望み求めることの表れだと思います。

・人として相手にされたことに対し、当たり前に返すべきことは見返りなのか?

・人としての当たり前と応えるべきこと≒見返りを求めること、の線引きは何処でするのか?

・気遣いや思い遣りに応える活動は見返りか?

・人として、社会人として挨拶して当たり前と言う意識を持つことは見返りを求めることなのか?

・冠婚葬祭や祝い事などと言った場に、立ち会うのが当たり前と考えることは見返りを求めることなのか?

・感謝や礼は、手段を考えて伝えるのが当たり前と思うことは見返りを求めることなのか?

・自分の常識で、相手を無視せず応えることが、当たり前と言うことは見返りを求め過ぎなのか?


など、他人の言動や態度をどうしても自分の常識の「ものさし」で判断することがあります。

他者に親切やお世話をする時に、果たして見返りを期待しない方が良い。
他人から責められたくなければ、自分から他人を責めてはならない。
そう心(頭)で理解していても、中々実際に実行することが出来ないのが人間です。
やはり、好きな人には、自分も好かれたいと考え願う、見返りを求めてしまうものです。

例えば、
何かで自分のしたことで人としての功徳が積めた、本当に良いことが出来たと思えれば、
何もその相手や周りからお礼を言われ、賞賛されずとも自分自身が嬉しくなり満足出来ます。

人はきっと最初に何か見返りを期待していると、自分自身が良いことをしたというそのことだけのことに
満足出来なくなってしまう結果に成ってしまうのでしょう。

何か自分自身も良いことをした時に、ついつい礼やお返し、または誉められたいなど
という気持ちが心の中におこっていないかどうか、ということによくよく気を付けたいものです

大人になって善し悪しに関わらず様々な「見返り」と言う言葉の持つ意味を知り、
よく子供の頃に見かけた親達がお世話になった方々に、
忘れずに何らかのお返しをしていたことを思い出しました。

日本では、何かをして頂いたり、物品を頂いたりするなど、こちらから感謝をしなくてはならない時、
何らかり形でお返しをする風習がお中元やお歳暮と言ったことによって表わします。

人は、他人の出来ないお世話をしたり、何らかの物などを差上げたりした時、
人は無意識の内に感謝と言う見返りを求めてしまうものです。


例えば、
・人に好かれたいと思うより、人を好きになる活動をする。

・信頼されたいと思うより、先ず多者を信頼することに心掛ける

・愛されることを求め望むよりも、こちらから愛するほうが幸せに成れる。

・魅力は与えるもの、他人に魅力を求めたり望んだりしてはならない。

・他人にお世話や親切にする時には、無私を心掛け、見返りを望み求めないで行う。

・他人から批評や批判されたくなければ、自分も他人の批評や批判してはいけない。

・他人から責められたくなければ、自分も他人を責めてはいけない。


このような人の煩悩の一つとされるこの様な「見返り」を望み求める気持ちを持たないようにすることは、
実際頭では判っていても、中々実行できることではありません。

私達凡人は、好きな人や愛する人には、好かれ愛されたい大切にされたいと思い願うものです。
折角他人に親切にしたのに、何も感謝の言葉や態度を示されなければ、ガッカリしてしまいます。

時に、感謝の言葉や態度が示されず、その人を許せなくて御縁が途切れてしまうことさえあります。
自分が批判された時は、「他の人だってやっているじゃないか」と、つい他人を責めたくなります。

では、どうすれば、見返りを求めずに他人に優しくすることが出来るのでしょうか。

他人への愛情、善意、情けは、何らかの形必ず自分に返って来る、と体験からも思います。
相手から直接感謝されなくても、巡り巡って、他の誰かが返してくれるものです。
行為そのものが返ってくるというよりも、そういう態度や心掛けが幸せを引き寄せ呼び込むのです。

人は他人に優しく出来るから、他人からも優しくして貰える。
優しくされることが嬉しいから、益々他人に優しくなれる。

上手くその好循環に乗れば、ことさら「他人に優しくしよう」などと義務的に考えなくても
「そうせずにはいられない」と思えるようになれるものです。

問題は、どうやってそのキッカケを掴むか、ということです。
折角他人に親切にしても、感謝されなければ、やはり損だ、親切が無駄になるのは馬鹿馬鹿しいなど
と考えて尻込みしてしまうのも無理はないと思います。
しかし、自分のした親切を「見返りを求めて、親切にする」のではなく、
「過去に受けた親切に恩返しをする」と考えればよいのです。
「自分が先に親切にしたのだ」と思うから、見返りを期待してしまうのです。

人は誰でも、過去に見知らぬ人や他人から親切にされたことがあるはずです。
幼児と言われる子供の頃は、みんな他人の手を借りなければ生きていくことはできません。

今無事に生きられていられるということは親族を初めとした数え切れないほど
多くの人の世話になっている証拠なのです。
自分は相手に何も親切にしていないのに、全くの無償で親切にしてくれた人も必ずいる筈です。

自分でも気付かぬ内に他人に迷惑をかけてしまったこと、
不用意に他人を傷つけてしまったこと、それらを黙って許してくれた人もいるはずです。
その恩に報いるために、他人に親切にすると考えれば良いのです。

相手に直接お返しをすることができなければ、他の誰かでも構わないと思います。
他人に優しくされたから、自分も他人に優しくする。
他人に許してもらったから、自分も他人を許す。
その善意が無駄になることはありません。

見返りが得られるだろうかと不安を感じることもありません。
自分の善意そのものが、他人への見返りなのですから、それで目的を遂げたと言えるのです。
他人に親切にするといっても、滅私奉公のように重苦しく考えることもありません。
折角の善意も、度が過ぎれば、要らぬお節介となってしまいます

相手の為に働いたり、物を与えたりすることよりも、最も他人の為になることは、
「相手を思いやり尊重する」ということで゛す。

例えば心を込めて挨拶をし、話を聞き、共感することです。
相手の幸せを共に喜び、落ち込んでいる時には見守り、
逆境にある時にも決して見捨てないことです。

このように「相手の存在を認めること」以上の優しさはありません。
己の出来る小さな善意を、日々コツコツと積み重ねていけば良いと思います。
ふと 気づいたころには、「愛し、愛される」という大きな循環が自然に出来上がっていることでしょう。

歳を重ね、辛さや苦しみの原因は数多くあると思いますが、
その一つは「見返りを求める心」ではないだろうか?
と思い至るようになりました。
愛というのは、無私無償の心でするものですが、人の欲や感情が邪魔をします。

私達はあらゆる場で愛を学んでいますが、愛は、見返りを求めた時点で死んでしまうのです。
「見返り求めると愛は死ぬ」のです。
してやった、してあげたと思った時点で、愛する行為にはならないのです。

ボランティアでも普通の行為でも、「してあげた」と心に思い浮かべた瞬間に、
それが相手に伝わり、相手の心の負担になってしまいます。
私は、思いやりを学ぶ中で無償の愛「ギブ&ギブ」という考え方を学び知りました。
与えて、見返りを求めずに、更に与える」という、
見返りを期待せずに「与えっぱなし」という考え方を知った時、「これだ!」と思い、感動しました。

その後、何の見返りも期待しない、求めない
無私の気持ちに心掛けながら人々と触合いました。
正直に言ってそう心掛けることは生きて来られたことの「恩返しする」ことよりも、
今迄の人生の中で感情を優先し犯してしまった、人として為してはならないことに対する
「罪滅ぼし」の気持ちと「因果応報」のように感じ取っています。
このような自らの心との戦いの活動は、現在も続いています。


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