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見返り⇔因果応報

【見返りを期待する邪の心】

因果・見返り

対人関係上の認める、愛する、信じる、挨拶する、感謝する、安心感の
キャッチボールをするなどの殆どは、その相手に大小(多少)に関わらず、
何らか見返りを望みながら他人に期待することに繋がると思いながら生きてきました。

・人として相手にされたことに対し当たり前に返すべきことは
 見返りを望むなのでしょうか?

・人として当たり前と応えるべきこと≒見返りを求めること、
 の線引きは何処でするのでしょうか?

・想いを届ける思い遣りに応える活動は見返りなのでしょうか?

・人として、社会人として
 挨拶して当たり前と言う意識を持つのは見返りを求めることなのでしょうか?

・こんな時に、立ち会うのが当たり前と考えることは見返りを求める
 ことになるのでしょうか?

・感謝や礼は、手段を考えて伝えることが当たり前と思うことは
 見返りを求めることなのでしょうか?

・自分の常識で、相手を無視せず応えることが当たり前と言うことは
 見返りを求め過ぎなのでしょうか?

他人の言動や態度をどうしても自分の常識の
「ものさし」で判断してしまうことが多々あります。

他者に親切やお世話をする時に、果たして見返りを期待しない方が良い。

他人から責められたくなければ、自分から他人を責めてはならない。
そう心(頭)で理解していても、中々実行に移すことが出来ないのが人間です。


やはり、好きな人には、自分も好かれたいと求め願うという、
見返りを求めてしまうものです。

例えば、何かで自分のしたことで
人としての功徳が積めた、本当に良いことが出来たと思えれば、
何もその相手や周りからお礼を言われ賞賛されずとも自分自身の
こころが嬉しくなり満足出来ます。

人はきっと最初に何か見返りを期待していると、自分自身が
良いことをしたと言う結果に満足出来なくなってしまうものです。

何か自分自身も良いことをした時に、ついつい相手に礼やお返し、
または誉められたいなどという気持ちが心の中におこっているか否か、
ということに気を付けたいものです。


大人になって善し悪しに関わらず様々な「見返り」と言う言葉の持つ意味を知り、
子供の頃に見かけた親達がお世話になった方々には忘れずに
何らかのお返しをしていたことをふと思い出しました。

日本では、他人から何かをして頂いたり、物品を頂いたりするなど、
こちらから感謝を伝えなくてはならない時、
何らかり形でお返しをする風習、お中元やお歳暮と言ったことに
よって表わし伝える習慣があります。

人は、他人の出来ないお世話をしたり、何らかの物などを差上げたりした時、
人は無意識の内に感謝と言う「見返り」を求めてしまうものです。

例えば、

愛されることを求め望むよりも、こちらから愛するほうが幸せに成れる。

魅力は与えるもの、人に意見を求めたり望んだりしてはならない。

他人にお世話や親切にする時には、無私に心掛け、見返りを望まないでする。

他人から批評や批判されたくなければ、自分も他人の批評や批判してはいけない。

他人から責められたくなければ、自分も他人を責めてはいけない。


人としての煩悩の一つとされる
この様な「見返り」を期待し望み求める気持ちを持たないようにすることは、
実際に頭では判っているつもりでも、中々実行できることではありません。

私達凡人は、好きな人や愛する人には、
好かれ愛されたい大切にされたいと思い願ってしまうものです。

折角他人に親切にしたのに、
何も感謝の言葉や態度がなければ、
ガッカリしてしまいます。

時に、
感謝やお礼の言葉や態度が示されず、
その人を許せなくて御縁や繋がりが
途切れてしまうこともあります。

自分が批判された時は、
「他の人だってやっているじゃないか」
とつい他人を責めたくなります。

どうすれば、見返りを求めず期待せずに
他人に優しくすることが出来るのでしょうか。

他人への愛情、善意、情けは、何らかの形必ず自分に返って来る
と過去の体験からも思います。

相手から直接感謝されなくても、巡り巡って他の誰かが返してくれます。

行為そのものが返ってくるというよりも、
そういう態度や心掛けが幸せや運を引き寄せ、自心に呼び込むのです。

人は他人に優しく出来るから、他人からも優しくして貰える。
優しくされることが嬉しいから、益々他人に優しくなれる。

上手くその好循環に乗れば、ことさら「他人に優しくしよう」
などと義務的に考えなくても、
「そうせずにはいられない」と思えるようになれるものです。
問題は、どうやってそのキッカケを掴むかです。

折角他人に親切にしても、感謝されなければやはり損だ、
親切が無駄になるのは馬鹿馬鹿しいなどと考えて
尻込みしてしまうのも無理はないと思います。

しかし、自分のした親切を「見返りを求めて、親切にする」
のではなく、恩赦
= 「過去に受けた親切に恩返しをする」
と考えればよいと教えられ学びました。

その学びは、
自分が先に親切にしたのだ」と思うから、
見返りを期待することになる気付きました。

人は、過去に見知らぬ人や他人から
親切にされたことがあるはずです。

幼児と言われる子供の頃は、みんな他人の手借りなければ
生きていくことはできません。

今無事に生きられていられるということは、親族を初めとした
数え切れないほどの多くの人のお世話になっている証拠なのだそうです。

自分は何も親切にしていないのに、無償で親切にして下さった人もいる筈です。

自分でも気付かぬ内に他人に迷惑をかけてしまったこと、
不用意に他人を傷つけてしまったこと、それらを黙って
受容れ許してくれた人も少なからずいるはずです。

その恩に報いるために、他人に親切にするのです。
相手に直接お返しをすることができなければ、
他の誰でも構わないと思います。

他人に優しくされたから、自分も他人に優しくする。
他人に許してもらったから、自分も他人を許す。
その善意の輪廻が無駄になることはありません。

見返りが得られるだろうかと不安を感じることもありません。

自分の善意そのものが、他人への見返りなのですから、
それで目的を遂げたと言えるのです。

他人に親切にするといっても、滅私奉公のように重苦しく考えることはありません。
折角の善意も、度が過ぎれば、要らぬお節介となってしまいます。
身の丈にそぐわない大それたことしようと思わなくてもよいのです。

相手の為に働いたり、物を与えたりすることよりも、
最も他人の為になることは、「相手を尊重する」ということ、

例えば
心を込めて挨拶をし、話を聞き、共感することです。

相手の幸せを共に喜び、落ち込んでいる時には見守り、
逆境にある時にも決して見捨てないこと。

相手の存在を認めること」以上の優しさはありません。

日々コツコツと己の出来る小さな善意を、積み重ねていけば良いと思います。
気づいたころには、「愛し、愛される」という大きな循環が自然に出来上がっています。

辛さや苦しみの原因は数多くあると思いますが、
その一つは「見返りを求める心」ではないだろうか
と歳を重ねて思い至るようになれました。

愛というのは、無私無償の心でするものですが、人の欲や感情が邪魔をします。

私達はあらゆる場で愛を学んでいますが、
愛は見返りを求めた時点で心の中から消え失せてしまいます。
見返り求めると愛は消える」のです。

してやった、してあげたと思った時点で、愛する行為にはならないのです。

ボランティアでも、「してやった」と思った瞬間に不思議に相手に伝わり、
それが相手の負担になります。

私は、思いやりを学ぶ中で無償の愛「ギブ&ギブ」
という考え方を知りました。
与えて、見返りを求めず更に与える
という、見返りを期待せずに
与えっぱなし」という考え方を知った時、
「これだ!」と共感し、とても感動しました。

その後、何の見返りも期待しない、求めない無私の気持ちを
心掛けながら人々と触合いました。

正直に言ってそう心掛けることは生きて来られたことの「恩返しする」
ことよりも今迄の人生で犯してしまった人として決して為してはならないして来た
ことに対する因果応報であり「罪滅ぼし」の気持ちに受け留め感じ取っています。

これは、自分自身の心との戦いであり、その戦いは現在もなお継続しています。

常識見返り心の境界線s

喩え一方通行であってもこれからも自分と闘いながら、この様な投稿をして行たいと思います。



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Theme: 心の持ち方 | Genre: 心と身体

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