FC2ブログ

当サイトに御訪問頂き誠にありがとうございます。40年余サービス業に携わり,
その体験で得た仕事やコミュニケーションの技や知恵,学びを載せております。

新型コロナウイルス感染おもてなし開発
みんなが一つに繋がり,知恵を出し合い和国コロナウイルスss新型コロナウイルス感染症社会和国コロナウイルスssで元気に生抜きましょう

※各投稿へのコメントは「日本語」でお願いします。


五常の徳-「仁」「義」「礼」「智」「信」

※以下学びのメモより転載

五常の徳-『仁』

『仁』人を思いやることに、素直にあれ

五常の徳-仁

儒教では、仁、義、礼、智、信の徳(=五徳)を拡充することで、
父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道を
全うすることを説いています。
その孔子の教えは、利他主義であると解します。
また、あくまで私見ですが、現在の日本人は行き過ぎた利己主義(egoism)、
自己顕示を見直すべきではないかと考えます。
そして、戦前の人々が確固として心に持っていた「五常の徳」を尊重、実践して行くこと、
即ち、利他主義の意識をひとり一人の日本人が備え持つことこそが大切だと思います。

『仁』・・・思いやりの心を持つこと。
  ・・・仁義・真実・まこと・誠意。
  ・・・慈しみ、思いやり。
=互いに慈しみ合う姿で義・礼・智・信の徳を実践することが最終の目的。

【仁】・・・「人を思いやることに、素直にあれ」

人を思いやること、これは内面的なもの、詰り気持ちの事を意味しています。
「思いやの行動は、示さなくていい」と、
思われる人がいるかもしれませんが決してそうではないと思います。

孔子は『論語』で、「仁」を以って最高の道徳であるとしており、
日常生活から遠いものではないが、
一方では容易に到達出来ぬもの、と説明がなされている。
ある場合は「人を愛すること」と説明し、顔回(ガンカイ)の質問に対しては
「克己復礼」こそが、「仁」である。
=私心を克服して礼を重んじること。
即ち「己に克ちて、礼を復むを仁と為す」と答えています。

前者は外部に対する行為を指し、後者即ち顔回に対する答えは自身の内なる
修養のあり方を指している。

具体的な心構えとしては、
己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」がよく知られています。

即ち、『仁』とは、思いやりの心で万人を愛し、
利己的な欲望を抑えて礼儀を執り行う
ことです。


五常の徳-『義』 
正義を貫くに、素直にあれ


五常の徳-義

正義。これは行動規範とも言えます。
孔子が『論語』の中で著した、「義を見てせざるは、勇なきなり」
(人の道として当然行うべき事と知りながら、これを実行しないのは勇気がないということ)
との言葉は余りにも有名です。

私利私欲に囚われず、成すべき事を成すということです。
中国思想では、「利」と対比される概念です。
利己主義即ち、自己中心的な行動を取り、他者の存在を二の次とするような利己的な行為を
行わない事であり、利他的な行為を取るようを意味すると思います。

武士道での中心かつ最も厳格な徳目はこの「義の精神」とされる。
「義」とは、打算や損得のない人としての正しい道、
即ち<正義を指すものであり、「義」から派生した言葉に大義・道義・節義・忠義・仁義・
信義・恩義・律義、更には義理・義務・義憤・義侠・義士などがある。

日本において武士と言われる古の人は、この「義」を武士道精神の中心に据え、
これを踏み外した者は卑怯者として糾弾の対象とされました。

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、
人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ないとの意があります。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は付き詰めれば
「どちらが得か」という相対的なものです。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とする
いわば不合理の精神であり「義」を遂行する為には
余程の自立心を養わなければならないとされました。

新渡戸稲造は、その著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言い、
この根源は「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、
不正な行為をした勝利者は賞賛されなかった。

「敵に塩を送る」との諺の元となったとされる上杉謙信の有名なエピソードですが、
こうした話が美談として長年伝えられたことは、
裏を返せば、そうした侍が少なかったとのではないかとも考えられます。

武士道が「義」を最高の支柱に置いたことは、言い換えれば、
そうした至難の「義」を追求する事により精神の「美学」を求めたのではないでしょうか。
生死をかけた戦いに望む際、全ての武士が上杉謙信のようにフェア・プレイの精神を
守ったわけではないと思われます。

生きるか死ぬかという場面において、
例え卑怯者と蔑まれようとも勝ちたいと思うのが人情であり、
またいつの世にあっても本能は美学よりも強く、
理想は現実の前に打ち砕かれるのが世の常です。

だからこそ、武士道はそのことを十分知りながら、
その現実を超越する己の理想の指針として、「」を厳しく求めたのです。


『礼』 礼を尽くすに、素直にあれ

五常の徳 礼

五常の徳- 『礼』

人の世に秩序を与える礼儀・礼節は、「仁」を実践する上でとても大切です。

自らの行いを丁寧にすることを「」と言います。
元々は宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味しています。

後に、人間社会の上下関係で守るべきことを意味するようになりました。
儒者の中でも、性悪説の立場に立った荀子は特に「」を重視したと言われています。
先日記した、五常の「」のみであってはいけませんし、
」なくして、「」はあり得ないという事です。

大人と子供の違いは、
「礼節」が何たるかを知り、身に着けているか、否かです。
この「礼節」を弁えてこそ、初めて一人前の社会人と言えます。

己を謙遜し、相手を尊び敬い、
「礼」を其の場、其の時の状況(Т.P.О)に 応じて自らの行動が出来るように、
弁える事を「節」と言います。

要約すると、親や年長者、目上の人に礼儀を尽くすこと、
自分を謙遜し、相手に敬意を持って接することが「礼」であり、
場合に応じて自分を律し、節度ある態度で行動することが「節」と言えます。


五常の徳-『智』 
知(知恵)を磨くに素直にあれ


五常の徳 智

五常の徳-『智』

」とは、学問に励むこと、知識を重んじることです。

 この「」を辞書検索すると、
 1 物事をよく理解すること。
 2 物事を理解する能力。と在ります。


このことは事物を理解し判断するものの元となることと解します。
即ち、智とは、人や物事の善悪(善し悪し)を正しく判断する知恵のことを言うと思われます。
生きて様々な経験を積む内に培った知識は、己の心の中で変化を遂げ、成長しながら、
自分自身の「智」(知恵)となり正しい判断を支えます。
「智」をより高めるには、偏りのない思考や、物事との接し方に基づき
常々様々な知識を蓄えることが肝要であると思います。
今の世の中では、勉強が出来ない人やスキル・知識が無い人を愚か者だとけなす風潮が
多々あると思われますが、唯、勉強だけが出来るから賢いとは限りません。

例えば、机上の論理計算だけがどんなに達者でも、愚か者と呼ばれることさえあります。
真の愚か者とは同じ過ちを繰り返し、何も学ばない存在を意味すると考えられます。
学問を学ぶと言うことのひとつには、先人が犯した過ちや立身出世、成功で得られた知識(知恵)を
学びとることに意味がある、と考えてみては如何でしょうか。

中国の儒学者洪応明(こうおうめい)は、
「菜根譚(さいこんたん)」という書を世に残しました。
儒教、道教、仏教の教えを踏まえ、処世の道(あり方)、よりよく生きる知恵が書かれた随想集です。
「菜根譚」には、「あまり暇があると、つまらぬ雑念が生じる。
あまり忙しすぎると、本来の自分を見失ってしまう」と言うように、
偏った生き方を戒める言葉が幾つも書かれています。

また、儒教では「中庸」と言い、よいバランスを保って生きることが
大切であると記されており、これは、正しい判断力を培うこと、
即ち「智」を高めるに於いても同様であると思います。
この「智」必ずしも良い意味のみを含む訳ではありません。

兼好法師は、
「伝へて聞き、学びて知るは、真の智に非ず」と言っています。
「知識に優れる」と言うような意味で用いられる場合には、往々にして表面的な智として称され、
取るに足らないもの、功利的でも忌むべきものとして扱われることが多くあります。

真の「智」とは、孟子の云う「是非の心」が
寂然として動かざるが如くにまでに長じたものであり、
私心に惑うことなく明らかにし、全てに通ずるに至った叡智(エイチ)のことを言い表していると解します。

類似した言葉で、仁愛も知恵も備え持っていること、
思いやりがあり、賢いことを「仁智」と言うそうです。


五常の徳- 『信』 
人を信じるに素直にあれ


五常の徳 信

『信』
この「信」は、言明を遵守し、約束を守ることを言い表しています。
友人、知人、親や兄弟と言った全ての人間関係における自分自身の在り方です。

日常生活で当たり前に感じている関係こそ、どこかで見つめ直す必要があると説いています。
言い換えるなら、友情に厚く、言明を違えないこと、
真実を「」を以って告げること、約束を必ず守ること、誠実(至誠)であること。
このようなことは、今の世の中にもっとも欠けていることではないか思われます。
それは、五常の徳の中で最も大切だと受け止め、感じられることです。
それを「五徳無くして、五倫有らず」と言われています。
孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、
前漢の董仲舒は五行説に基づき「」を加えました。
は同情心、は正義感、は社会的節度、道徳的分別を言い、
これに「」を加えて「五常」となりました。

【まとめ】

この五常の徳について、二宮尊徳氏は自らの哲学として、己の権利の行使と義務の履行は、
自らの信義に従い、至誠を以って(誠実に)行われるべきだ、と解します。
二宮尊徳氏は、
「人と人との関係の中には、物を売ったり買ったり、金を貸したり借りたり、
 という関係は決して少なくない。どのような経済的な行為も、
 仁義礼智信の道徳倫理的な基準に従ってなされるべきだ」
と説いています。

また、他者に貸して喜び、他人に借りて喜ぶという「自他両全」に理想が実現するはずだ、
と言い表しています。
尊徳氏は、五常のような道徳的倫理観で以って、金銭の貸し借りをしよう、と教えたのです。
それ教えは、「五常講」と呼ばれています。
詰り、物やお金を借りた者は、借りた時の感謝の気持ちを忘れずに、
きちんと返せば、五常の徳を実行したことになるということを教えているのです。

関連記事
スポンサーサイト



Theme: 自己啓発 | Genre: ビジネス

Comment

Leave a Reply





管理者にだけ表示を許可する

Trackback